想像力──チェルノブイリと福島

2013年09月23日

ベラルーシの13歳の男の子が書いた作文の日本語訳を教材にしてみた。「国際ユース作文コンテスト」で2012年度に最優秀賞に選ばれたものである。同年代の子どもが書いた作文を読んで、何かしら刺激を受けてほしいと思ったのだ。

その男の子はある日学校で1枚の写真を目にする。女の子が明るく笑っている写真。その女の子はチェルノブイリの放射能のせいで、余命いくばくもないと。

彼はベラルーシのミンスクの人。チェルノブイリは、国境近くにあるとはいえ隣国ウクライナにある。距離にしてだいたい320キロ。

26年くらい前に起こった、今や隣国となった(昔はどちらもソ連邦)場所で起こった惨事が今なおその傷跡を新たに生産し続けていて、このベラルーシ・ミンスクの男の子の心に何かしら訴えかけているのだ。

この作文を見て、もしかすると作文教室の子どもたちから「福島」という言葉が出てくるかな? と少し思ったのだ。福島から320キロというと、北は北海道から南は四国をぐるっと取り込み山口県までの範囲。しかも、福島は日本にある。

あまり報道されていないが、既に甲状腺がんにかかった子どもたちもいると聞く。

けれども、作文教室の子どもたちにとって、チェルノブイリも遠ければ、福島も遠かった。

無理強いするつもりもないのだが、これでいいのだろうか? と逡巡する。日本のメディアの問題だろうか? それとも、想像力の問題だろうか? 福島にしろチェルノブイリにしろ、自分に引き付けて考えるためには想像力が必要なんじゃないか? その想像力が、子どもたちだけでなく、メディアも含めた私たちの文化の中で、決定的に欠けているんじゃないだろうか? そんな気持ちがふつふつとしてくる。

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