<型>と<創造>の問題

2013年08月31日

自分自身が文章を書くときに、この問題で悩むことは少なくなったが、作文指導をしていて、ときどきここでやはり躓く。

<型>はルールやパターンなどと言い換えることもできるだろう。
文章を書くときに、そもそも何を書くのか、という内容の部分がないと、何も始まらない。伝えたいものの核心、ということもできるかもしれない。(ほんとうにそんなものがあるのか?と疑うこともできるが、ここでは措いておく。)

文章のすべては、その「核心」を伝えるということにあるだろう。たとえそれがメモ的なものであっても、少なくとも未来の自分に伝え得るものでないといけない。その「核心」を現在の自分以外の誰かに伝えようとするとき、それはもしかすると、音楽で表現するのがふさわしいかもしれない。それとも絵画? ダンス?

話を文章に限っても、詩や作文、エッセーや論文などと、さまざまな方法がある。それらもすべて<型>ということができる。

文章を書く上でいちばん外してはいけない<型>は何と言っても、文法である。さらに、言葉と意味の対応である。「ここの文、つながりがなんかおかしくないか?」「これ、どういう意味や?」などと、作文教室でもキッチリと確認する部分である。

しかし、文法は遊ぶ余地があまりないものの、言葉と意味の対応については、多少遊ぶ余地があり、その対応をズラしていくところに面白み、ユーモアが生まれることがある。

「躓き」はこういうときに起こる。
この子は、言葉を遊ぼうとしているのだろうか? 辞書的な意味に話を戻せば簡単だが、もし遊ぼうとしているのなら、意味のズレを明確に表現すれば少し面白くなるんじゃないか?
とか思ってしまうわけだ。

この「遊び」というのは<創造>の芽でもある。<創造>そのものであると言えるかもしれない。

まぁ、たいていは残念ながら、生徒に確認すると、辞書的な意味をふまえた上で「遊ん」でいるのではなく、意味を勘違いしていただけということがほとんどだけど。

また、文章を書くときの<型>として教科書的に言われていることに、「です・ます調」(敬体)か「だ・である調」(常体)のどちらかに統一する、というものがある。そのとおりなのだが、これも、「です・ます調」の文体に「だ・である調」を混ぜることによって、文章に奥行きを与えたりメリハリを利かせたりという技があるのだ。

生徒の作文でも、ときどき二つが混ざることがあり、どう指導すべきか「躓く」。

そもそも、どうして二つが混ざるということが起こるのか?
いちばん簡単な説明は、「です・ます調」は誰かに説明したりするときで、「だ・である調」は自分の中で何か考えているとき、というものだろう。だから、最初は「説明」しようとして「です・ます調」で始めた子が、書いているうちに「だ・である調」にそっくり移行してしまうということもたまにある。「考える」ことを始めると、無意識のうちに「だ・である調」になってしまうのだ。

そのような場合は、無理に直すようなことはせず(受験生は残念ながら直しますが)、どうして途中で文体が変わってしまったのかを考えてもらうことにしている。そして、「書く」という営みを通して「考え」始めたことを評価する。

<型>と<創造>というテーマにはいまいち肉薄できなかったが、<型>をきっちりしておかないと<創造>も育たないし、けれど<型>をズラしたり破ったりしていくことに<創造>の醍醐味があるし。そのバランスを追求しながら、生徒たちといつもスリリングな教室をやっていけたら、と思う。

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