<文化資本>として

2013年12月1日

教材を準備するとき、とりあえずは生徒たちの理解力などを考慮する。当然だ。

しかし、難しいのは、テーマやアプローチが違えば、驚くほど理解力を示す生徒がいる一方で、びっくりするほど理解できない生徒もいるということ。たとえば、小説風の文章がまったく書けない子が、観察文では素晴らしい記述を見せたりすることがある。そして、その逆もまた然り。

なので、このテーマについてちょっと考えてほしいな、と思えば、少し難しいかな? と逡巡しながらも、なるべくそのまま生徒たちに提出することにしている。

短い文なら、皆で読み合わせをする。読めない漢字は、わかる人が教えてくれたり、辞書を引いたり。難しそうな言葉の意味も、皆で確認していく。そうして、各々が理解できる範囲で、テーマについて意見を述べ、書く。

しかし、考えてみれば、すっかり大人になっている私であっても、ニュースを聞いて理解できないことはあるし、未だに初めて聞くような言葉や言い回しに出遭うし、難しくて読めない本もある。世の中は常に私にとって混沌としていて、その混沌の中から理解可能な秩序を紡ぎだしていく。

習ってない漢字があったっていいじゃん、内容が難しくってよく理解できなくってもいいじゃん、理解可能な範囲で何とかテーマにしがみついてみてほしいと思うのだ。

そこで、ふと思うのが、一昔前の茶の間の風景。

皆でテレビを観ながら、番組の内容についてあーだこーだと言い合う。意見を言いたければ言うし、興味がなければ聞き流すし(教室では流されると困りますが^^)、わからないことがあれば質問する──<文化資本>という概念をブルデューという学者が言っているが、そういう資本になりうる場。

教室の役割の一つに、そういうものがあるかな、と思ったりする。

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