AI時代の教育と評価

教育と評価の問題については、考えるべきことが多い。

引用「「配分のための評価」と「改善のための評価」を区別しよう。「配分のための評価」は絶対必要だが、それが教育の最終目標ではないはず」 by 宇佐美洋

私はこの旧態依然とした枠組みは、今後5年位で変わっていくだろうと思う。だから、今「区別」するのは目の前の現状に対してはそうであっても、将来を作っていくためには、どのように区別しないやり方があるのか、を模索していくことだ。

その枠組が変わっていくのは、AI技術を駆使した評価の仕方へとシフトしていくだろうから。

つまり、「語彙」・「文法」…などの形でテストをしなくても、AIとの会話形式、また文章を書いたりすることで、「採点」されてしまうだろうから。そもそも「点数」で出てくるかどうかもわからない。

また、話したり書いたりというのが、ある時間やツールを限定してテストという形でなされるのか、授業中のパフォーマンスですべてなされるのか、というのもわからない。授業中のパフォーマンスだと、「協同活動」の評価や、「表情」などによるコミュニケーション能力なども測れるようになるだろう。「批判的」「従順」などの性格類型も分析できるだろう。

結果、おそらく、あまり意味のない「語彙」「文法」能力の数値化もなくなるのではないかと思う。もちろん、数字は出せるだろうけど、そこに人々の意識はあまりいかなくなるだろうということ。

評価が、私たちの考える「教育の目標」へ向かうものではなく、たとえば、権力が考えるそれだったらよくないと思うわけで、この、おそらくブラックホール化する評価体系をできるだけ透明化し、私たちが思うような「教育の目標」へ向かうものへとしていくためには、今から「私たち」がそれについて議論し自分たちでつくっていく気概をもつべきだと思う。

最後に、私は「私たち」という言い方をこれまで避けてきた。「私たち日本人は…」という言い方は嫌いだし、誰かが「私たち」といって勝手に私を含めている言い方も好きではない。けれど、今私はここであえて「私たち」という言葉を使っている。それは、同じような危機感を持っていたりする人たちがゆるやかにでも協力しあわないと、未来を構想していくことが難しいと感じているからだ。また、周囲にそのようなことを考えている人はいないようなのだが、どこかにきっと仲間がいる、と信じているからという理由もある。

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