2013年08月13日「権狐」の読解実践(岩下修)について
教科書でもおなじみの「ごんぎつね」。私が子どものころにも授業でやったように思うが、私自身が学習した記憶はあまりない。記憶にあるのは、一つ下の弟が、感動的に朗読していたことだ。
今読み返しても、というか、読み返す気すらしないほど、私はこの物語に興味がない。
こんなに有名なのに、どうして私はこんなに白けてるのかな? という疑問が、なんとなくずっとあった。
最近、朝日新聞でも、岩下修先生(立命館小学校)の「権狐」読解実践が紹介されていた。その実践は、『国語科「言語活動の充実」事例』(明治図書、2010年)に詳しい。
教科書に載っている「ごんぎつね」は、児童雑誌『赤い鳥』(1918年創刊)に掲載されたものだ。岩下は、このいわば、赤い鳥版「ごんぎつね」と、新美南吉自筆の「権狐」とを読み比べながら、「批評型学習活動」を展開している。そして、新美南吉版の方が「整合性」があることに、授業の中で生徒自身が気づいていくのだ。
私も「批評型」の授業に興味があっていろいろ考えているのだが、素材やアプローチ方法などなかなか難しいものがある。せっかくなのでこの「権狐」を使わせてもらおうと、今考えている。授業実践の紹介もあって生徒たちの反応や感想、意見などが紹介されているので、教室の子どもたちにそういったものも併せて読んでもらえば刺激にもなるだろう。
しかし、だ。
どうも気が進まない。
自己分析するに、この美しくも悲しい物語の背後に、何か胡散臭いものを感じ取ってしまうからなのだと思う。それが何かを探求するほどもこの物語に興味がもてないので、それ以上は考えないが、その胡散臭さが『赤い鳥』に対してのものなのか、新美南吉自身に対するものなのか、少し気になってきた。
胡散臭いもの──。
それは、「どうして権狐は死ななくてはならなかったのか?」ということに関連しているような気がする。兵十の母親も死んだ。兵十は生き残った。これが何を意味するのか?
このように「死」に着目するアイデアは、昔読んだ田嶋陽子の『フィルムの中の女ヒロインはなぜ殺されるのか』(新水社、1991年)から得たものである。
さて、これ以上ひとりで興味のない素材──けど、教材として非常に魅力的なもの──について考えるのは気が重い。機会があれば、やはり教室の子どもたちにもいっしょに考えてもらうことにしようかしらん?
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