①文章を文法や語彙の辞書的意味に沿って正しく読める
②文章の行間を読む
③文章の構成や全体の流れを分析する
④その文章が書かれた状況や背景を考慮し、自分(たち)が自分たちの状況や背景の中でその文章をどのように読むことができるのかを分析する
また、当然ながら、
⑤扱われているテーマについて、それが社会的にどのような枠組みで捉えられているのかを教養として知っておく、ということも必要になるだろう。
まだまだあると思うが、いわゆる「読解」の授業内に限っていっても、読解にはさまざまな位相がある。
①、②はごくごく基本的なことであり、③、④になると読解は途端に躍動的になりワクワクするものになる。
私は主に留学生に日本語を教えているが、読解のときには、③、④までもっていくことを心がけている。①、②の段階ではノートを取りながらコツコツ授業を聞いていた学生が、③、④のQA(質疑応答)になると、だんだん顔を上げて目を輝かせてくる。クラス中が読解の旅へ──。
QAは教師主導で始まるが、脳みその活発なクラスでは、それはすぐに学生主導のQAに変わっていくこともある。このライブ感は対面ならではだとやはり思う。
クラスの学生同士・教師と学生の対話、そして読んでいる私たちと書かれた文章・それが生み出された状況との対話。
読解は、授業に限っていっても、こんなにダイナミックな活動だ。
日本語学校での「読解」
「読解の教材を扱うときは、それが書かれた背景などにも言及してあげてください」というのがスタンダードな学校で働いている──つもりだった。先生たちも、「はい、わかりました」という感じ。
しかし、どうやらそれは先程の③、④の活動へとつながるものでもなかったようだ。残念ながら標準の授業で行われていたらしいのは、①と、あとは教科書のQAを教師向けマニュアルや解答に沿ってなんとなくやっていた、ということのようなのだ。
また、分析するに、昨今の新聞離れはどうやらシニア層にも広がっているのか、あるいは新聞に有用な情報がなくなってきたということなのか、⑤に関して、大人たちが現代の社会の枠組み、というものにまったくキャッチアップしていないということもわかってきた。
もちろん、若い先生も状況は似たようなものだが、シニア層が、「わからないのは私たちのせいではない」とふんぞり返っているのに対し、若い人たちは「わからないから勉強しよう」となってくれるところが天と地ほど違う。
多様な「読解」
読解は多様で、自由だ。
Youtubeで又吉がやっていることもとても刺激的だ。
灘中の『銀の匙』の授業も有名だ。
本でも、『〜を読む』シリーズがいろいろある。
などなど。
私はとてもそのレベルにはいかないけど、せめて自由に思考をめぐらす楽しさを学生と味わいたいと思っている。
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