宇宙社会学の言語

言語には、すでに秩序が組み込まれ、その秩序に合った権力が組み込まれている。

これまでの科学的言説は、「科学」の権威を確固たるものにするための言語によって成立していた。そのような言語を使って、その権威を乗り越えていこうとする世界をどうやって描けるのだろう。権威を打ち立てるための用語や不明なものを誤魔化すための用語を、ひとつひとつあげつらっていかなければいけないのだろうか。それとも、もっと軽やかに乗り越えていくことができるのだろうか。

具体的には、「平和」「平等」「自由」などの用語からして、「科学」を権威づけるために創られ、構築され、使われ、私たちを縛ってきたのだと思う。同じ出どころから、「陰謀論」という用語も紡ぎ出され、これまでの世界を否定しようとするものたちをそのような用語によって危険視し排除するということをやってきたのだと思う。

巨大な権力の巨大な陰謀が、それを否定するものたちを「陰謀論」と名付けるとは、シャレているにもほどがある。けれど、これまでの世界観の中で、良識ある人たちは、「陰謀論」と言われると身がすくみ、まるで危険なものであるかのように近寄ることさえできなくなる。

これは、私自身の経験を言っている。

けれどある時思った。ほんとうにおかしな説なら、近寄ってそれがどんなものであるのか自分で確かめてもいいのではないか。そのうえで、やはりこれはおかしいと言ってもいいのではないか。どうして「陰謀論」を読んだり知ったりすること自体を、私はこんなに怖がっているのか。また、そういったことを口にする人を、どうかしちゃったとかおかしくなったとか、思うのだろうか。それがどんな説か、実際のところ私は検討すらしていないのに、と思ったのだ。

これまでも、モンサントとかアメリカの製薬会社のこととか、そういうことを調べて読んだりしたことはあった。思えば、ステロイドの薬禍を経験したことがその動機になっていたのかもしれない。

そして、一昨年か昨年あたりから、『目に見えぬ侵略』や『マインドハッキング』(ワイリー)など読んで、昨年1月には我那覇さんのWEFの体当たり取材をフォローし・・・

世の中はコロナだワクチンだと狂乱気味で、それはなかなか落ち着かない。これは終わらないやつや、と思い、いったい何が起こっているのか、ということを心から知りたいと思い始めていた。

「陰謀論」とされるもの、そのような雰囲気をまとわされたものに近づくのは怖かった。けれど、とにかく知ろうと思った。知ってから、改めて自分で「陰謀論」と判断すればいい、と腹をくくった。そうやって進んでいくと、どんどん世の中がひっくり返っていった。オセロでどんどんひっくり返っていっくように、黒が白に、白が黒に、パタパタとひっくり返っていった。

差別をするときには有徴化することがよく行われる。差別の対象を名付け、排除していったり見下していったりする。「陰謀論」も、自然発生的なものではなく、誰かが意図的に作り出し流布させていったのだろう。権力を持っている人か、その周囲にいて権力をほしいと思っている人たちによって。

このような文脈において、「君たちのほうが陰謀じゃないか!」と言い返すこともできるが、その言葉はもともとある世界観を否定するために作り出したものなのだから、用語の意味をあげつらって別の状況に使用しても意味がないように思われる。

このようにして考えていくと、使えなくなる用語がどんどん増えていく。迷信、認識の誤謬、想像力・・・そして最初に挙げた、「平和」「平等」「自由」も。理念に問題はなくとも、すでにその用語それ自体に権力と世界観が組み込まれてしまっている以上、それを使うことは、その世界と権力を承認するところから出発することになってしまう。

宇宙社会学の世界観を、どのような用語で描いていけるのか、まじめに考えると、もしかすると難しいかもしれないと思い始めている。

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